理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

作家の胆振旅

楽天ブログ「本館」の記事を、加筆修正の上、転載。

    昨年の大学入学共通テストでその作品「羽織と時計」が出題されたことから、大正から昭和初期にかけて活躍した作家、加能作次郎がちょっとした話題になったことがあった。
   その小品随筆集『このわた集」に、「登別の二日」という作品が収められている。 
   昭和二年の初秋に北海道を旅したようである。
   話の展開や文章がどうとかいうのではなく、著者の旅の楽しみ方、期待するものに共感できる。 
   雨の定山渓を引き上げ、室蘭行きの鉄道に乗るべく札幌に入るところから、著者の語りは始まる。道都の中心部もまた生憎の天気で、北大や植物園の見物も断念し、代わりに駅前のカフェでサッポロビールを堪能した。よほど口に合ったらしく、「恰も馴染の女とでも別れを惜しむやうに、飽かず嗜んだ」後、午後二時過ぎの列車に乗った。     
   今ならば室蘭行は北広島、恵庭、千歳とそのまま南へ下り、太平洋岸に出てくれる。が、この当時は、なのか、それとも作次郎が乗った便がそうであったのか、汽車はまず岩見沢に向かい、そこから苫小牧方面を指して南下する。 
   途中、幾春別、萬字炭山、そして夕張と、「妙に詩的な感じのする」、「珍しく、面白い」停車場の名に興味を引かれながら揺られているうち、列車は「膽振國」に入る。 旅人には、窓外の風景が一変したように感じられた。
    石狩野が最早既に大半が開墾され、青々たる田野相続いて来ん秋の豊穣を思はせてゐたに反して、膽振野は未だ到る處不毛の荒野であった。その土地が自然に恵まるること薄くして、拓かんとしても拓くによしなき為か、或は又未だ人の力がそこまで至り及んでゐないのか、兎も角も原始の姿その儘とも謂つべき曠野が曠野に続いて、折柄の雨に一層満目蕭條といふ感が深かつた。これが所謂原始林なるものかと思はれる密生した大叢林も、絶えず車窓を掠めた。 
   曠野、などと言えば、地元の方々に叱られてしまうかもしれないが、何だか追分から沼ノ端、糸井から白老を走っている時の風景を想起してしまう。 
   そして私は初めて北海道へ来たといふ気持になることが出来た。遠く蝦夷地に旅に来たといふ気持になることが出来た。        
   時折、広い野の中に小さな集落やぽつんとただ一軒佇んでいる小さな家がある。 
   それらの或るものの低い軒先に、思ひがけなく赤い女の腰巻などが艶めかしく吊るされてゐるのを見出すと、私の胸は妙にときめいた。 
   艶かしさから生活感を、そして生活感からこの広大な処女地の開拓の歴史と未来へと思いが広がっていくところが、作次郎ならではの感覚と言える。
   初秋の夕べ、雨の蝦夷地、一人旅ーーいろいろ取り集めて妙にうら寂しく、而もしみじみと心往くやうな感傷的な気持に浸った。 苫小牧を過ぎ、錦多峰、白老などいふ妙に詩味の多い名前の小駅を二つ、三つ送り迎えた頃に、日はとつぷりと暮れて了つた。 
   現在は近隣で最も大きい都市である苫小牧が登場するのはここのみである。    
   電車に乗り換え、登別温泉に着いたのは夜八時頃のことである。当時は、路面電車が通っていたようである。 
   駅前には大勢の客引きが提灯を翳しながら整列していた。「北海道は何処でもさうだつた」という。 
   作次郎はその内、兼ねて当地で最も大きいと聞いていた「第一T館」、滝本であろうが、そこに宿るべく番頭に声をかけたが、満員で断られてしまう。そこで「第二T館」の番頭に案内を乞うた。   
   ところが、ここで用意された部屋というのが「我慢のならないほどひどい所」であった。 部屋のある位置というのが、「館内交通の要」に当たり、客が湯や便所に行くにも、女中達が調理場と客室を行き来するにも必ずここを通る。さらに床の間の裏の壁には電話機がついており、真上の部屋では芸者を呼んでのドンチャン騒ぎが繰り広げられている。宿の者さえ「この家で一番悪るい場所」と認める始末だった。 
   私はすつかり悲観して了つた。故意に虐待されて居るやうな僻みさへ起つて、惨めなほど憂鬱になつた。ここへ来るまでのしみじみした、寂しいながら楽しい愉快な旅の気分も悉く台無しにされたやうな気がした。 
   と、大いに悄気たが、この部屋を担当する秋という女中との会話が楽しく、 
「ああいいとも、僕は何処でもいいさ。僕は何でもあなた任せだ」 
  あっさり立ち直り、朗らかに言った。可愛い人だ。   
   計画では、翌日は室蘭に入り、夜船で噴火湾を横切り、森から函館へと渡るつもりでいた。が、雨は翌朝になっても熄むどころか、風も加わって強さを増している。
   これでは船が出るか、出ても森まで行けるか、覚束ない。それで室蘭行は九時の最終列車まで待つことにしたが、宿が気を利かせて用意した新しい部屋が気に入り、ついにもう一泊すると決める。    
   とはいえ、この雨風では街歩きも、楽しみにしていた地獄見物も出来ない。天気に恵まれぬ旅行ではあったが、この滞在延長が旅のハイライトのような一日を作家に与えてくれることになる。 
   湯から戻ると、襖一枚を隔てた隣室に客が入っていた。 
   而も若々しい女の聲がしてゐる。 
   この御仁のこと、そうなるともう気になって仕方がない。 
   初めは夫婦客かと思い、こうした場合の「旅先で遭遇する或事」を想像しながら、一応は顔を顰めてみた。この辺りのセンサーの過敏さは、中学生並だ。
   が、宿帳をつけに来た番頭と客の会話を襖越しに聞いていると、幸いと言うべきか、ここに来るまでの汽車の中で知り合った女性二人のようであった。 
   この時、作次郎の全神経が集中している若い女性は東京の人で、用があって北海道にやって来て、この晩のうちに室蘭から汽船で青森まで渡る予定であったものが、やはり海上の波風が強く、霧も濃かったために欠航となった。それで車中で知り合った女性の誘いで登別にやって来たという。 
   蛇足的な感想ながら、やはり室蘭と青森は近い。 
   私は妙に無関心で居ることが出来なかった。若い女の一人旅!(中略)同じく只一人遠い旅先にあつて、殊更センチメンタルになつてゐる私にとつて、さまざまのロマンチツクな空想の好材料でなければならなかつた。どんな女だらう、何者だらう、又何処に如何なる事情があつて、遥々この蝦夷地の果てまで只一人旅して来たのだらうか、そんなことが頻りに考へられた。 
   この感覚は、同じく一人旅を好む身としては共感できる。ただ作次郎の場合、ここから三日前、函館から札幌に向かう夜汽車で席を隣り合った婦人のことまで思い出す。終いには、隣室の女性について、 
   どんな女か、その顔も姿も見られなかつたが、私の甘い空想は、彼女をすつかり絶世の美女に仕立て上げて了つたことは言ふまでもなかつた。   
   と、どんどん想像を膨らませる。 
    船は出ない。戸外の、庭の樹々に激しく叩きつけられる雨風の音に耳を傾けていると、心細さ、寂しさが募る。ただ、 
 さうした孤独の寂寥を味はんが為に自ら求めて遠く出て来た自分だつたのだ・・・・。 
   これも分かる。個人的な好みを言えば、宿泊はなるべく都会にすることにしている。周りが賑やかだからこそ、却って独りであることが実感され、「孤独の寂寥」が深まるような思いがするからだ。 
   夜九時過ぎ、酔い覚ましに風呂へ行く。廊下を歩いていると、浴場の方から「艶かしい女の聲」で小原節が聞こえてくる。どうやら一人ではなく、二、三人で合唱しているようであった。  私は妙に心をそそられながら、急いで脱衣場に入り、手早く着物を脱ぎながら、仕切の硝子戸の外から浴場の中を覗いた。(中略)中は勿論混浴だった。 
   ブログを読んでくださっている方々からすれば、「またかよ」かもしれないが、紹介しているこちらも感想は同じだ。 
   温泉浴場とはいえ、今日とは構造が大分異なる。男女別なのは、小さな浴槽のみである。しかし、これもまた両者を仕切る磨りガラスの戸は開け放たれていたので互いに丸見えである。 
   中では、男一人と女二人で‘男湯’を取り巻くようにしながら、愉快げに声を合わせて唄っていた。女性の方は二人ともに柄杓で湯を打って拍子をとり、それに合わせて上体と頭を揺らしていた。
    ‘女湯’に目を向けると、外国人の老紳士が浴槽の縁に腰掛けながら、じっと歌声に聴き入っている。
   作次郎は多少の逡巡の後、外国人がいる方の‘女湯’に入った。男女がいる‘男湯’の闖入が歌を止めてしまうことを恐れたためである。 男は二十五、六のちょっといなせ感じの風貌をしており、作次郎の真正面で大胡座をかいている。その右手にならぶ女性は、一人が四十近く、もう一人が三十そこそこと見えた。二人の体つきを描写しているが、ここでは省く。
   電燈の光も朧げに、濛々と湯気の立ちこもつた温泉の浴場の中で、おしなべて何れも齢壮んな男女が、身に一物も掩わぬ赤裸々の姿で、恰も他に人もなく所も知らぬもののやうに、我を忘れて楽しげに唄ってゐる 
  キリスト教や儒教の束縛の外にある、かつてのこの国の庶民の大らかな姿だ。 
   たとひ一時の興とはいへ、此世の苦しみとか悲しみとかいふものから超越し、只々幸福そのもののやうに有頂天の歓楽に酔ふてゐるとは、正にその時その場の三人を指して言ふべきであつた。 その聲は美しく、その調子は優婉にして艶かしい。そしてこちらには、一人の異国の旅人が、柱の蔭に幾らか姿を隠すかのやうにして、黙念とそれに聞き惚れてゐる。外は折柄の雨である。その景、その情、その趣、正にこれ一幅の生きた名畫である。私はすつかりそれに魅せられて了つて、長い間夢みるやうに恍惚としてゐた。 
   分かる。確かに神々しくも官能的な神話絵のようであり、元気であっけらかんとした色気の漂う浮世絵のようでもある。 そして、 
  私はこの感動的の一場の光景に接しただけでも、遥々この登別温泉に来た甲斐があつた 
   と思うに至る。 外国人が湯から上がり、浴場を出た。そして、ここまで読んできた者の予想を裏切ることなく、作次郎は若い女に話しかけた。
    三人は小原節の本場、八尾のある越中の出であった。作次郎の生国、能登の隣国である。女は言葉に残る訛りから、作次郎が能登の産であることを言い当てた。
   狎れがいよいよ強まり、女達の湯船に移ろうとした。が、それは何とか堪えた。代わりに小さく吟じた。 
   キタサアーノサア、アア、ドッコイショ 
    三人がそれに和し、後を引き受けた。 
    翌朝、また三人に会うことを密かに期待したが、その姿を見ることはなかった。早くに発ってしまっていた。旭川に住まっていることは聞いたが、旭川のどこでどのように暮らしているかを知らぬまま別れたことが心残りとなった。 
   何だか英一蝶の「雨宿り図屏風」や映画「雨あがる」を思い出させるような小説である。   
   人それぞれの動機があろうが、私ならば旅には、ひと時の非日常を求める。そして、それを与えてくれるのは旅愁であり、旅先での一期一会だ。勝景や名蹟はあまり必要ない。 作者の女性への瞬発力と積極性に苦笑させられることも一再ならずであったが、旅の何をもって「来た甲斐があった」とするかの基準には、一も二もなく同調できる。 
   それにしても作次郎さん、間違いなく通ったはずなのに、室蘭については全く書いてくれなかった。