理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

お座なりで済ますな

   十代将軍家治の下で並ぶ者なき権勢を誇った老中田沼意次の嫡男で若年寄の田沼意知が、江戸城中で斬殺されたのは天明四年(1784)三月二十四日のことである。

   意知は、八つ時(午後二時)前の退出の節、通りがかった新番所から走り出てきた番士の佐野善左衛門政言に斬りつけられた。見送りの役人およそ二十人の眼前で、「抜身を四方八方へふり回」し、「追かけ」(『寛永以来刃傷記』)てくる佐野によって肩、背中、両股に傷を負い、指も一本失った。父意次の居屋敷である神田橋屋敷に運ばれたが、柳営に詰める医師達の治療の拙さもあって翌日に死去した。  

   その次の日の二十六日には、早くも善左衛門を取り調べた大目付大屋昌富等から吟味の結果が老中へ報告された。

   それによると、善左衛門には意知を襲った時の記憶が全くなかった。取り押さえられ、別室に押し込められてから暫くの後に自分が傷を負わせたのが意知であったと初めて思い出し、その旨を監視の徒目付に尋ねたが、徒目付が答えなかったのでなおも考え込んでいたという。

   結果、三手掛は善左衛門が乱心、すなわち錯乱して意知を襲ったのだと判定した。

   しかし、藤田覚氏が指摘しているように、事件時、意知は朋輩二人と連れ立って歩いていたのである。にも関わらず、善左衛門は他には目もくれず意知だけを付け狙って襲っている。仮に正気を失っていたとしても、意知に何らかの意趣もまた抱いていたと考えるべきである。

   そもそも乱心はこうした場合に当局が出すお座なりの結論である。言い換えれば真相の隠蔽である。ただ、真相を犠牲にして被害者の名誉を傷つけず、加害者の関係者の連座も最小限に留める方法ともいえるから、一概に悪いとは言えない。 

    事件発生の情報は、ことが出来したその日のうちから瞬く間に江戸中に広まった。当然のことながら江戸の士庶には乱心という公儀の示した見解に納得しない者も少なくなかった。

   善左衛門の乱心を信じない人の中には、刃傷に及んだ動機を「世直し」と見る者もあった。 

   世上には、田沼父子の施政への怨嗟、そして異例の出世に対する嫉視が渦巻いていたのである。 

   田沼意次は蔵米三百俵の家に生まれ、九代家重、十代家治の二代の将軍に寵愛され、要地の遠州相良を都邑とする四万七千石の大名にまで上った。そして父が老中、息子がその下僚の若年寄という親子同時の入閣は前代未聞である。後に長谷川平蔵の後を受けて火付盗賊改を拝命する森山孝盛は、田沼の異例の出頭ぶりを


人世の吉凶禍福、古今珍しからずといえども、代々の権門栄辱多き中に、近来田沼家に超えたるはなかるべし


と表している。 

   しかし、新出来の権門が栄華を謳歌する一方、東日本では前年に冷害が元の飢饉に見舞われ、大量の餓死者、そして逃散者を出した。膝下の江戸も米価の騰貴が庶民の暮らしを脅かし、さらに打ち続く天災が人々の不安を搔き立てた。そして商業の発展、都市文化の爛熟の陰の側面として、田畑を捨てて流入してきた者が無宿人や浮浪者になって市中に溢れかえっていた。人心は極めて不穏だったのである。 

   事件の報に接した長崎オランダ商館長のティチングは、この事件に田沼潰しの策謀を見た。 


   もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの時間にあずかっており、また、この事件を使嗾しているように思われる。(中略)もともとこの暗殺の意図は、田沼主殿頭と息子の山城守の改革を妨げるために、その父親の方を殺すことにあったとさえいわれる。この二人は将軍のもっともお気に入りであり、田沼の一族はつぎからつぎへ、国政の各部門に参与するようになっており、それが因となって二人とも大変憎まれていた。しかしながら、こういうことも考えられた。つまり、父親の方はもう年をとっているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある。のみならずまた、父親から、そのたった独りの息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はありえないはずだ、ということである。こういうわけで、息子を殺すことが決定したのである、と。

  

   田沼には意知以外に、早世した者を除いて三人の男子があった。ゆえに「たった独りの息子」の部分に関しては事実誤認がある。

    また、「寛永以来刃傷記」には、下のような「物知りの人々」の評判を載せている。 


  考へ見るに父主殿頭殿のしかたは常の事になりたれば是にてたりたりとは思ふまし  山城殿の家督になり御老中になりたらは主殿殿よりも又一段上の事をたくみ出すへし  然れは末々に至りて天下に猶又害をなして    御家をあやうくすへき人は此れ山城守なり  夫故に      東照権現宮の神霊佐野善左衛門が手を借りさせ給ひて山城守を誅罰し給ふなるへし  然故に以前と以後は正気にして切時計り何茂覚す

 

   つまり刀を振り回していた時の善左衛門が乱心の体に見えたのは、家康の神霊が憑依していたためだというのだ。

   ある立場の者が感じた田沼の「危険さ」がよく分かるだけでなく、幕府の「公式見解」である乱心のユニークな解釈を織り込んだ面白い論といえる。 

   結局、人々の願望を体現したような「世直し」説が、様々な尾鰭まで付いて流布した結果、善左衛門は最後には神様として祀られることになるのである。 

   事件の衝撃は大きく、何より与えた政治的影響は甚大なものがあった。この時齢六十六と高齢であった田沼意次は、壮年の嫡男を失ったことで、完全に先が見えてしまった。その政治力は大打撃を蒙ったのである。事件の翌年、田沼は一万石の加増を受けるが、これは幕府内外へのアピールの意味があったろう。将軍の寵愛の深さを喧伝することによって、政治生命の延命措置を図ったものと考えられる。しかし、二年後に将軍家治が死去すると、後ろ盾を失った意次は実にあっさりと失脚する。その後、一度は巻き返しを図るものの、復権叶わぬまま身罷った。  

   その意味では、陰謀を疑ったティチングの反応が真っ当なのである。事件がもたらした結果の重大さを思えば、そこに政治的意図がなかったと考える方がむしろ不自然なほどであった。

   しかし、以前に「善左衛門、神になる」で触れたとおり、佐野善左衛門が田沼意知を斬った理由は公憤などではなく、まったくの私怨である可能性が高い。

   本来は対立など生まれようがないほどに身分がかけ離れた両人である。その因縁の起源について神沢杜口は

  

  斯る遺恨は何より起れるにやと尋るに、其濫觴は家系の事なりと云り。

 

  としている。

  すなわち意知は、父、そして己が幕閣となったことを受け、自家を名門譜代大名へと発展させようとしていた。そのために、名家には当然ある家の由緒を整える作業を事件の数年前から行なっていた。この流れの中で田沼家に自家の系図を貸与したのが善左衛門だったとされる。田沼家も佐野家もともに藤原秀郷を鼻祖とする秀郷流藤原家である。ただし、田沼家は後に系図を‘整理’して、源姓を名乗るようになる。

   善左衛門は善左衛門でこの機に意知の歓心を買い、己が出世の足がかりとしようという目論見があった。

   すでに通説となっている、この「家系の事」を遺恨の因とする説は、信頼性の高い史料によって証明されているわけではない。また、自家を佐野一族の惣領としたい意知が種々善左衛門に嫌がらせしたとする話も有名だが、善左衛門の家は血脈的に嫡流からかなり遠く、そもそも排斥の対象とはなりえない。従ってこの風聞は成り立たない。      

   ならば何をもって意知と善左衛門が舞台裏で接点があったとするかというと、善左衛門には政権中枢への伝手があったのである。

   通説では、意知に善左衛門を引き合わせたのは佐野家嫡流すなわち唐沢山城の佐野家の当主である義行であったとされているが、善左衛門にはより近い親戚に政権のキーパーソンとも言える人物があった。  

   大坂町奉行の佐野政親である。天明元年の拝命以来、通常は在任二、三年とされるこの職を七年近く務めた人物である。田沼が主導する政権における大坂の比重の高さを思えば、田沼の経済政策にとり重要な存在として位置付けられると思われる。その身は大坂にあったとは言え、紹介状の一つくらいは書けたであろう。

   嫡流の佐野家と、政親や善左衛門の一門の間はいつ枝分かれしたのか分明でないほど血筋的には遠い。  

   政親を介して接近していく過程で「手土産」として佐野家の系図が持ち出された可能性はある。        

   そして、そこで生じた何らかのトラブルが事件の引き金となったと想像できる。    

   乱心、私憤ともに、背後関係がないことをあらゆるケースにおいて意味するわけではないが、使嗾する者がなくとも犯行を成り立たせることから、単独犯の可能性を高めることは確かである。

   書いていても隔靴掻痒を自覚するが、佐野善左衛門の事件に黒幕はいなかったと考えてよいのではないだろうか。

   田沼が表舞台を追われた翌年には、米価の高騰に憤激した都市零細民による打ちこわしが三都で同時多発的に発生するという前代未聞の事件が起きた。これについては田沼失脚後の混乱が生んだ政治空白も一因だったとされている。


   同様の黒幕なき要人殺害としては、大正十年(1921年)の原敬の刺殺が想起される。ただし、こちらは限りなくグレーの存在があったにも関わらず、追及が行われなかった。

    当時の原の権力は、普通の現役首相のそれを凌駕していた。政府、議会は無論のこと、軍や宮中をも自らのコントロール下に置くことに成功していた。「安倍一強」どころの話ではなかった。

  原の場合もまた、「賊軍」の出自から位人臣を極めた立身が嫉視なり抵抗感の対象となったであろうことは容易に想像できるが、のみならず同時にシベリア撤兵や皇太子の欧州歴訪など、抵抗を排して思い切った政策を実行してきたことから、ことに軍や右翼から強い反発を買っていた。

   暗殺の噂や危害を加えることをほのめかす脅迫状の類が届くこともあったが、剛腹な彼はこれを捨ておいていたという。


   京都に赴く原を東京駅で襲ったのは、大塚駅の転轍手の中岡艮一という十八歳の少年であった。短刀を握った中岡は改札に向かう原に体当たりするようにその胸を刺した。原はほぼ即死であった。

   その場で取り押さえられた中岡は、凶行に及んだ動機が政官の腐敗、そして原首相の協調的な外交政策への憤りであり、さらにほんの一月ほど前の安田善次郎刺殺事件に刺激を受けたと供述した。 

  金にも家族関係にも悩まされた不幸な生い立ちで、社会に出てからも恋に破れ、映画に携わる夢も叶わず、早くも己の人生に絶望していた。

   捜査および審理においては、当然ながら共犯者や教唆者の有無にも及んだが、法廷では中岡から原を殺害する仲間に誘われたという同僚から注目すべき証言が出た。中岡は、その同僚に、自分には金銭を援助する者があると豪語していたという。

「千や二千の金はどうにでもなる。芝公園十三号地に来い」

   その「芝公園十三号地」の住人が柴四朗である。つまり『佳人之奇遇』の作家、東海散士である。この柴が入れ込んでいた満蒙独立運動の同志が右翼活動家の五百木良三であった。原が実現のために動いた裕仁皇太子の渡欧に直接抗議したこともある人物である。この両人は皇室観のみならず、対外政策に対する考え方も欧米重視、協調外交の原とは全く合わない。

   近衛文麿は、  事件の二、三日前、自家に出入りしていた五百木が

 「二、三日中に原がやられます」

と話したと、後に語っている。

   これほど濃厚な関与の疑いがありながら、柴、五百木の名がそれ以上追及されることはなかった。

   伊藤之雄氏はその大部の評伝『原敬 外交と政治の理想』の中で「昭和史の大きな可能性」が原の死によって失われたとする。


   もし原が元老か内大臣(あるいは元老兼内大臣)として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、公平な調停者としての昭和天皇のイメージが陸海軍に浸透し、一九三一年(昭和六年)九月に満州事変が起きても、陸軍を統制して、事変の拡大を阻止できた可能性がある(略)。この意味でも、原の暗殺は、満州事変から日中全面戦争・太平洋戦争への道を変え得た、一つの可能性を摘み取った。

   分別のない一青年の行動と、警備陣の一瞬の気の緩みが、近代日本の歩む道を大きく変えたともいえるだろう。

   

   打ちこわしどころの話ではない。一本の短刀が国家の未来を変えてしまったのかもしれないのである。

   パンデミック以来、まさか今の時代に、というような出来事に二十一世紀に生きる我々は立て続けに見舞われている。今年の春、ロシアがウクライナに侵攻し、ついにヨーロッパに戦火が生じた時、今の国際環境、そして国内の政治社会の状況が戦前に似通いつつある、と不吉な予感を抱いた。そして、それは少なくとも私の主観の中では妄想に終わらず、ついに国内で大物政治家の殺害というテロまで出来した。 

   ただし、現段階ではこれをもって即、戦前昭和との類似を指摘する材料とはできない。 

   なぜならば、安倍元首相を殺害した男は、犯行動機を氏の政治信条への反発ではないとしているからである。戦前の政財界の要人へのテロはことごとく、公憤から来たものだった。 



   私憤、それも見当違いの恨みからの犯行ならば、大物政治家の死がもたらす影響の大きさに変わりはないが、死そのものは交通事故や病によるものと同質ということになる。 

   だが、やはり念入りな検証が必要ではないか。ましてや今の日本は1945年より前の姿に逆戻りしつつあるかもしれない世界をどのように生き抜いていくかを模索しなければならない重大な局面にある。その思想や政論への賛否は別として、氏は保守派のアイコンとして、政界だけに留まらない強い影響力を持つ政治家であった。その人物を非業のうちに喪ったことは、日本人がこれから否応なしに決めなければいけない国の針路の選択肢が一つ、失なわれしまったことを意味するかもしれないのである。 

  選択肢が減ること自体、民主国家の国民にとっては大いなる不利益である。ましてや今回の場合、それが犯罪行為によってなされたのだ。

   元より私ごときが言わずとも、今後様々な角度からの検証や論考が世に出ようが、事件の真相究明をお座なりで終わらせてはならない。

  「生活に悩みを抱えた者が、訳の分からない論理で憎悪を募らせた末の犯行」と結論づけるのは調べ尽くしてからでも遅くはない。もし背後に政治的意図の下に平成の大宰相を除くことを目論んだ者があったとすれば、それは海外メディアの表現そのままの「暗殺」である。事件が持つ意味は全く異なってくる。 

   上面の出来事に安易に納得するのではなく、その真偽を検証し、表層を剥がした下にある事柄を具に確認していく必要がある。事実を正確に把握することで今の我々が置かれている時代情勢を正しく認識できる。背景に政治的意図をもって実行を使嗾した存在があったとすれば、それは国家の行く末に危険信号が点灯しているということなのだ。 

   また、検証の過程には当然のことながら「安倍晋三の国家観、未来ビジョンとは何であったか」という設問がある。もしかすると、その設問を解いていく作業を通じて、今視界より消えかかっている選択肢の一つを温存できるかもしれないのである。