理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

古松軒と鬼熊

楽天ブログ「本館」20/11/20記事の転載です。


   江戸時代、諸国の私領の施政や民情を視察する幕府の巡見使は、将軍の代替わりごとに派遣される。十一代家斉襲職の時のそれは天明八(1788)年に全国へ差し向けられ、うち陸奥、出羽、松前に向かう一行が江戸を出たのは、五月六日のことである。 

   これに随行した備中の儒学者、古川古松軒による詳細な旅の見聞録『東遊雑記』は、東洋文庫で読むことができる。     

   松前藩領に入ったのは、七月二十日のことで、まずは城下の士庶の富裕さに驚いている。飢饉で疲弊した東北諸藩を巡ってきたところ、海一つ渡ると「夢にも知ら」なかった「上々国」が現れた。江戸より北に、家構え、人、言葉遣いが揃って良いのは、松前城下と江差に及ぶ所は無いとまで褒めちぎっている。 

   城下を出ても、和人地とはいえ領内の風物や生活文化が醸す異国情緒が、この旅好きの儒学者をすっかり舞い上がらせてしまったようで、文中、「雅なり」、「興あり」、「筆にも尽くし難し」を連発している。 とはいえ、このおよそ一月の松前滞在で留めた情報量は尋常ではない。卓抜した観察力、取材力の持ち主だったに違いない。 

   アマゾンにアナコンダやジャガーが棲んでいるように、秘境と怪物じみた生物の存在は切り離せない。 

   『東遊雑記』にも、支笏湖の十〆鱒の話が出てくる。巨大なアメマスのことである。大きなもので六メートル余り、その半分程度のサイズのものはざらにあるという。鹿を丸呑みし、さらに獲物があれば地にも上がる。スピードは至って早いという。まるでワニだ。 

   そして、巡検使一行が常に傍らにつきまとう危険として恐怖させられたのが羆だ。 人でも馬でも骨まで食べ尽くすために、松前では鬼熊と称されていた。 

   古松軒は、かなり詳細にその特徴や生態を記している。 膂力は並外れて強く、馬を獲れば、頭と尾を掴んで半分に折り畳んで背中に担いで巣に帰っていく。それだけでなく、動きは兎のごとく俊敏で、速い。鮭が遡上する時期になれば、何尾も捕まえて藤の蔓に束ね、背に担いで走り去っていく。道民ならば北海道銘菓、山親爺のCMを思い出すところだろう。 一行が松前を出て、日本海側の乙部、江差に向かう道中、険路の小砂子〜上の国間では、三名の巡見使一人につき二人の鉄砲打ちが付いた。近辺は‘鬼熊’が頻繁に出没するが、刃物は通じず、鉄砲も急所を外せば、そのまま向かって来るという。 松前の人足達はここを通る際、大いに怯えていたが、古松軒はと言えば、 

「松前の人々は大いに恐れているが、こちらにとっては珍しく、見てみたい気持ちもある」 

と、記している。この時点ではまだお気楽だった。

   乙部に到り、一旦城下に戻って、今度は太平洋側を回る。 

   福島を発し、その日の宿陣のある知内に向かう。山越えを繰り返す難路だったが、ある山の頂から四方を眺めると、あちこちに大きな卒都婆が立っているのが見える。地元では菩提車と称され、往来する者は念仏を唱えながら車を回して、行く。     

   羆に喰われた人を弔うためのものである。近辺の山々で犠牲になる者があまりに多く、真新しい卒都婆も十本ばかりあった。 

   翌々日、銭亀沢で恒例となるアイヌの人達への目通りを行った。ここが最終地である。

   ここからは江戸への帰路になるということで、一行にも安堵の思いが生じた。が、この日投宿した上磯で、羆が鬼と恐れられる所以を思い知ることとなる。   

   巡見使が上磯に到着したのは、夜十時頃のことだった。湯に入り、食事などするうち、そろそろ零時になろうかと思っていたところ、にわかに集落が騒がしくなり、次いで「山も崩」れるかと思うほどの鬨の声が上がった。藩の役人達は上も下も慌ただしく駆け回っていたが、古松軒等には何が起きたのかが分からず、ただただ不安になるばかりだった。さらに今度は銃声が聞こえ、二時間に渡って間断なく続いた。戸外は「星のごとく」多くの松明が灯され、異常なまでに明るかった。 ようやく銃声が止んだ後、何が起きたのか、藩役人に尋ねたところ、二頭の羆が飛び込んで来て、馬を二頭獲っていったという。 

   この時、巡見使一行、藩の人数、それに居住民合わせて千人以上の人が集落にあった。かくも賑々しい中、 「悪虎たるとも来たるべき所に思わざりし」 を襲いかかってきた不敵さに、江戸から来た者達はすっかり肝を潰してしまった。 

   この後も、知内から福島までの山中では、隙があれば馬を奪おうと岩の間から、樹の陰から羆が現れ、終始付け狙われる始末だった。

   初めは「見てみたい」等とお気楽を言っていた古松軒もさすがに生きた心地がしなかったかもしれない。 「聞くほどおそろしきものにて、松前浦うらの大難儀ものにて、世に鬼住国と称せるはかかる地のことなるべし」 と、がらりとトーンを変えた記述をしている。 十月十八日、無事江戸に帰着している。  

   それにしても、儒学者が見たという菩提車は、今も朽ちることなくあるのだろうか。様々なことを伝え、問い掛けてくれる遺物だと思うのだが。     

   最後に余談。古松軒等は、乙部と銭亀沢でアイヌの女性達の‘鶴の舞’なるものを観ている。一人が雄鶴、一人が雌鶴を真似た声を響かせ、手拍子を打ち、唄う。そして鶴が羽根を広げるように袖をひらつかせながら舞う。先日、白老町のウポポイに行った折、似た踊りを観覧した。二百年以上前に江戸からやって来た儒学者と同じものを観られたのだとすれば、なかなか感慨深い。