理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

名告らぬ碑(いしぶみ)

   22年5月22日に楽天ブログ本館記事の転載です。7月5日アップの「原点の人」の姉妹編的な内容になっています。

     

   沢町にある満冏(まんけい)寺は、文久二(1862)年八月に室蘭村に開かれた本室蘭説教所を濫觴とし、明治六(1873)年の札幌本道開削を機に現在の地に移転した。室蘭市内で最も古い寺である。    

   この寺の境内に、戊辰戦争で討死した会津藩士の吊魂碑があると知り、訪ねた。この機に初めて知ったことだが、吊の字は、弔に同じだという。つまりは主家に殉じた会津松平の武士達の霊魂を弔い慰める碑である。

   行くに先立ち、多少首を傾げた。実は満冏寺には以前も足を運んでいるのだが、これに気づかなかった。その折は隣する寺を見下ろす位置にある大きなペット・動物慰霊碑と、これを置く寺の方の慈悲心からの施しなのであろうが、餌が与えられているようで、境内の彼方此方で満ち足りたような顔で思い思いに過ごす猫達の姿ばかりに関心が向いた。因みに室蘭は、今日び珍しいことと思うが、呑気そうに路上を歩いたり寝転んだりしている猫を目にすることがままある。     

   もう一つ、分からないのは、会津戦争とは直接関わりのない室蘭にて戦死者の霊を慰めたいという機運が芽生え、実際に碑の建立が成ったということは、当地に会津の旧臣やその親類縁者が多く居を構えていたという事実を示している。

   想起できる事柄は、確かにある。例えば文久三年に京の等樹院に納まる足利将軍三代の木像の首を鴨川の畔に梟すという擬似天誅を行ない、よりにもよって京都守護職の任にあった主君の松平容保を激怒させた大庭恭平は、維新後、各地を転々とし、晩年は函館から室蘭に移り住んでここで生涯を終えた。明治三十年頃、すでに当地にあった弟を頼ってのことだという。

   ならば、そうした地縁に基づく集団は、いかなる理由でいつ頃形成されたのか。調べてみたがよく分からなかった。    

   満冏寺の寺地は、海岸町と沢町の境の辺りに位置し、同寺以外にも数宇がある。

   あると知って訪ねた今回は、探すまでもなく、吊魂碑はみつかった。ただし、知った上で行かなければまず気づかない。背後の木々等と比較しても明らかだが、小さい。隣のペット慰霊碑よりよほど小ぶりであるーーこれには個人的に多少複雑な想いを抱かざるを得ないが、部外者が感想を述べることは控えておくーー。そして何より、正面の碑文は面一杯に「吊魂碑」とあるのみで、会津や戊辰の文字はなく、誰を弔う碑であるかを教えてくれていない。大きさといい、碑文といい、むしろ知られることを厭い、あえて片隅に立つことを選んでいるかのような印象を受けた。 

   ただ、幾分の風化こそ見られるものの、石肌に汚れや苔の類はなく、周囲の草刈りも行き届いている。寺の方なり関係者なりがよく世話をしておられることが伺われる。  

   左手には「明治十四年八月廿三日」と建立年月日が刻まれている。慶応四(1868)年、国境いの母成峠の防衛線を瞬く間に突破した新政府軍が若松城下に乱入、これを会津方が何とか押し返して籠城戦が始まったのがまさに八月二十三日である。好川之範氏によれば、室蘭でも、例年この日に慰霊祭が挙行されたという。幕末維新史に詳しい人ならば、この日付をもって碑が会津と因縁あるものであることに気付くかもしれない。 

   実は素っ気ない碑銘そのものが会津の侍達の無念、秘めたる怒りを物語っているのである。野口信一『会津藩』には、戦争終結後の新政府軍の敗者に対する非情な措置が語られている。 


   戦後、会津藩士の遺骸は賊軍ということで、手をつけることを禁じられていた。遺骸は月日の経過と共に風雨にさらされ腐乱し、野犬や烏などが食い漁りその惨状は見るに堪えない状態であった。 (中略) ようやく合葬が許されたのは二月二十四日になってであった。 しかしその場所に指定されたのは罪人や牛馬を埋葬する小田山の西、五社壇であった。これではあまりに不憫であり別な場所をと願い出たところ、藩の処刑場の場所を聞かれた。(中略)集められた遺骸は二千余柱にも達したという。その墓標も最初「殉難之墓」と記したが、撤去を命じられ「弔死標」としか許されなかった。


   満冏寺の碑はまさに上の記述のままである。 賊軍であろうが何であろうが、主君を守るために命を擲った者達の健気さを憐れむことが武士の情だと思うのだが、いわゆる官軍の指揮を執った者達は足軽だの郷士だのが多かったせいか、そうした武士の名に値する気格を持たなかった。 

   ともあれ、薩長の天下にあって、旧の会津藩士達は郷土の朋党の忠節を顕彰することも、その死を悼むことも憚らなければならなかったのである。しかし、そのような状況下で不足を忍ぶ形であってもなお弔いの碑を建てたところに室蘭の会津人達の想いの強さが伝わる。 

   前の年には、函館の高龍寺に有名な「傷心惨目」の碑が建立されている。言わば室蘭の吊魂碑は「傷心惨目」の碑の弟に当たるのかもしれないが、これもまた、一見すると誰を悼むためのものか分からない。 

   室蘭の碑に話を戻すと、その裏面には、建立者有志二十人の名が刻まれている。 

   ここに名を連ねる人々の中で、室蘭の歴史を語る上で欠くことが出来ない存在は、赤城信一であろう。現在の市立総合病院の前身である室蘭病院の初代院長、そして長老として室蘭、伊達のキリスト教会を支えた人物である。 そして、室蘭の会津人士の中で戦野に散った人々の無念を背負う者として彼以上の適任者はいなかったはずである。  

   以下、上田智夫「赤城信一  ーー目鼻のない肖像ーー」(『室蘭地方史研究』)および好川之範『北の会津士魂』に拠って赤城の履歴を紹介していくこととする。 

   赤城信一は、天保十(1839)年に猪苗代の儒医の家の第三子として生まれた。高杉晋作と同い年ということになる。出生数日後にして伯父の家である赤城家の養い子となった。赤城家当主の泰和は塩川(喜多方市)の町医者ながら藩から扶持を賜る合力医師を務めた人である。

   信一も十六歳より蘭方医術を学び、十七の時に江戸に上って幕府医官に師事したが、折しも大流行していたコレラに罹患した江戸詰藩士達の治療に当たるべく医師仮雇に任じられた。国許に戻った後、今度は長崎遊学を命じられたが、これは結局叶わなかった。

   慶応ニ年、長崎に向かう途上、京に至ったところで砲隊付医官として留まるよう命ぜられる。京都守護職を務める会津藩は京洛の地に大兵を置いていたが、この時、長州藩の四箇所の藩境で繰り広げられていた幕長戦争は幕府方が苦戦を強いられており、精強をもって鳴る会津藩兵の投入も現実味を帯びはじめていた。言ってみれば、この時の会津は戦時動員の中にあり、遊学どころの話ではなかった。これにより赤城の長崎行きの途は閉じたのである。 

   そして翌年の極月、王政復古のクーデターにより会津藩は京を退去、さらにその一月後には戊辰戦争の幕開きを告げる鳥羽伏見の戦いが勃発する。赤城も大砲隊医官として参陣したが、徳川方は敗れ、赤城も朋輩達とともに江戸、そして会津へと敗走を余儀なくされた。 

   四月、戦雲が北天を覆う中、新政府軍が進駐した江戸を脱出した幕府西洋医学所頭取の松本良順が若松城下に入った。名声、実力ともに当時日本屈指の洋医である。幕府の恩を強く感じ、新政府に屈することを潔しとせず、徹底抗戦を続ける会津藩を医療の面から助けるべく門人達を従えて参じたのであった。 

   良順の来着を機に仮病院が城下に置かれることとなり、広大な敷地と設備の整った建物を有する藩校日新館を改装して病棟とした。赤城もまた、良順の下で後送されてくる戦傷者の治療に当たった。しかし、先に述べたように八月下旬に新政府軍が一瀉千里の勢いで城下に雪崩れ込み、会津藩は籠城戦を余儀なくされた。藩主松平容保の勧告に応じた良順は会津を去り、同様に新政府軍への抵抗の構えを崩していない庄内藩に赴いた。籠城戦が始まる前日のことである。 無論、赤城はなおも藩領内において負傷者の治療に努めたのだが、病院は塩川、喜多方と転々と居を移すことを余儀なくされた。 籠城一カ月、刀折れ矢尽きた会津藩は新政府軍に降伏する。

   ところが、赤城信一の戊辰戦争は主家が矛を置いた後もなお続いたのである。これこそ運命としかいいようがないのだが、会津若松城が明け渡された頃、領内を離れ仙台城下にあった赤城信一は、旧幕府脱走兵で編成された衝鋒隊付医師として仙台領東名湾に集結していた榎本艦隊に身を投じ、蝦夷地に渡る。戊辰最後の戦い、箱館戦争を戦って江戸幕府の完全なる終焉を見届けることになるのである。 

   藩の降伏に承服できず蝦夷地に渡った会津藩士は他にもあるのだから、奇異なこととはできない。しかし、医者である彼が、なぜ会津での戦いが熄んだ後もなお蝦夷地に向かうことを選んだのかには興味が湧く。

   上田氏は、その論考において「会津戦争後どのようないきさつで榎本軍に投じたかは明らかでない」としている。赤城の来歴にある幾度かの転機にはいずれも謎が残っている。重大な決断や行動をした彼は何を考えていたのか、そこが分からなければ赤城信一という人間の姿そのものが曖昧になる。ゆえに上田氏は論考に「目鼻のない肖像」という副題を与えたのであろう。

   しかし、はるばる箱館まで行くに至る過程については全く想像が及ばないというわけでもない。 籠城戦が始まって十日ほど後の九月四日、赤城は傷病者約三十名を奥羽越列藩同盟の盟邦、米沢藩へ移送するよう命じられた。が、列藩同盟側の不利を見て、すでに二日に新政府に降伏していた同藩はこれの入境を拒んだ。それでやむを得ず同盟の盟主、仙台藩を頼って仙台城下に至ったのだが、この転々によって主君に倣い恭順する機を逸したのかもしれない。 彼が入った頃、仙台藩領には新たな戦いに向けた物々しさと高揚感が濃厚に漂っていた。言わば、会津領内とは異なり、仙台はまだ終戦ムードからほど遠かったのであろう。      

   まず、松島湾東名には最新鋭の軍艦、開陽を擁する榎本艦隊が碇を下ろし、陸では越後や会津から転進してきた旧幕府軍が榎本に合流すべく集結しつつあった。

   恐らくは赤城もまた、これから北へ向かう将士のいずれかより一緒に来るよう口説かれたのではないだろうか。そう考えさせられるのは、赤城が心ならずも袂を分かった松本良順がわざわざ庄内から呼び出され、蝦夷地へ同行するよう、榎本から懇望されていたのである。良順にとり、榎本は姪の夫であり、さらにこの脱走部隊には実弟も加わっていたのである。迷ったと思われるが、かねてより関りのあった土方歳三に説かれて蝦夷地行きを断念した。 

    本州を逃れても、新政府軍が討伐軍を向けることは確実視されていた。旧幕府軍の者達からすれば医者、それも数カ月のこととはいえ、天下の名医松本良順の下で働いた赤城を拉致してでも連れていきたかったのではないだろうか。 

  これに対し、赤城自身の状況や心境はどうであったか。恐らく、彼は移送先で引き続き患者を看るよう命じられたか、もしくは激戦で領内に戻ることができなくなった、といった事情に直面していたのかもしれない。つまり、移送が完了した時点で彼の「城と殿様を守る戦い」は強制終了させられてしまったのではないか。 仙台藩は九月二十日、そしてついに会津藩もその二日後に降伏した。しかし、会津での戦が終わったから「これ以上戦っても仕方がない」ではなく、この場合、戦い抜くことそのものが彼にとっては重要だったのではないか。主君や朋輩は刀折れ矢が尽きるまで、圧倒的に優勢な敵に手向かったのである。ならば故山の戦場を離れた自分もまた、場所は異なっても最後まで戦うことでその節義が立つと考えたのではないか。そこには、もしかすると、その下で働き、触れることができた幕医松本良順の気骨が赤城を駆り立てた部分もあったかもしれない。 

   余談だが、彼が行動を共にした衝鋒隊の幹部、元京都見廻組今井信郎は後年、坂本竜馬を暗殺したことを告白した人物である。また、最初の方で紹介した大庭恭平も会津戦争では衝鋒隊に属し、副将として転戦したことから、恐らく室蘭では行き違いになった両者がここで邂逅した可能性がある。 

   十月九日、開陽、蟠竜、神速、回天、長鯨、大江、鳳凰、回春の八艦からなる榎本艦隊は、旧幕府軍、東北諸藩の抗戦派を乗せ、東名浜を出帆した。二十日、噴火湾沿岸の鷲ノ木浜に上陸、南行して箱館府を落とした。十一月には松前藩の首邑福山をも陥落させ、榎本武揚は十二月十四日に蝦夷全島の平定を宣言した。

    仙台領から蝦夷地に向かう赤城の乗船は長鯨であった。これには衝鋒隊のほかに上野戦争で知られる彰義隊も同船していた。

   長鯨については、後の赤城と室蘭の因縁を暗示するような船で、室蘭との関わりにおいて語るべきことがいくつかある。 先に艦隊諸艦が鷲ノ木に至った際、長鯨のみは風浪に翻弄されてはるか東方の日高の様似沖まで流された。引き返して二十一日に噴火湾に入ったものの、直ちに鷲ノ木には向かわず絵鞆港に入港、トキカラモイすなわち今日の室蘭港南側で薪水を補給してから二十三日午後に絵鞆を出帆、その日の夕に鷲ノ木に至った。 つまり、鷲ノ木上陸直前の想定外の寄港が赤城と室蘭の関わりの始まりである。山並みに縁取られた湾を眺めた彼はこの地を訪れた多くの人同様、 「素晴らしい天然の良港だ」 と思ったことであろうが、まさか己がこの地の開創の歴史に深く名を刻むことまではさすがに予感すらなかったに違いない。

  長鯨と室蘭の関わりはこれに留まらない。榎本の蝦夷島政権は太平洋岸の要地モロランに奉行所を置いたが、それに伴い奉行所付として同地に配置された輸送船が鳳凰、そして長鯨だったのである。     

   赤城は衝鋒隊に従って福山、江差を転戦、十二月の半ばに五稜郭に帰還した。それから間もなく病院頭取の高松凌雲の許を訪ね、凌雲が院長を務める箱館病院で働かせてくれるよう懇願した。赤城は、衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門の推挙状を凌雲に差し出した。古屋は凌雲の実兄である。赤城は採用され、箱館病院にて医員として勤務することとなった。 箱館病院は旧幕時代の病院兼医学伝習所の箱館医学所を前身とし、文久元(1861)年に建物が落成した。榎本軍の蝦夷地侵攻以来、戦続きで負傷者が増加したことから、榎本政権はこれを接収して戦傷者を容れた。頭取すなわち院長たる凌雲の下には、赤城の他にも事務長に当たる病院掛頭取に小野権之丞、医師に蓮沼誠造という二人の会津人があった。小野は、かつて会津藩公用方として華々しい幕末京都政界で活躍した人物である。 

   高松凌雲は筑後国の産で、庄屋の家に生まれた。二十歳の時に久留米藩家老の家臣の養子となったが、やがて出奔し、大坂の適塾に入門してたちまち頭角を現した。適塾の閉鎖後、今度は横浜に遷って英語を学んでいたところ、御三卿一橋家に表医師として登用され、さらに当主慶喜の徳川宗家相続によって幕府奥詰医師まで進んだ。その後間もなく、パリ万博出席そしてヨーロッパ留学を命じられた御三卿清水家当主の徳川昭武随行医に選ばれた。ところがパリの医学校「神の館」で学ぶうちに大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いの報に接し、急ぎ帰朝した。彼も松本良順同様、東北で戦うべく榎本艦隊にその身を託して江戸を脱けた。    

   吉村昭氏は、『暁の旅人』、『夜明けの雷鳴』という良順、凌雲をそれぞれ主人公に据えた長編小説を著している。 会津箱館で彼等に従った赤城信一の名は前者には表れないものの、後者では頻出する。それは凌雲の片腕となった赤城が物語の展開に不可欠な存在となっていたからでもあるが、何よりも彼が、凌雲の生涯、そして戊辰戦争においても特筆されるべき凄惨な事件に巻き込まれたからでもあろう。 

   凌雲は、負傷者ならば旧幕府軍の兵のみならず、敵兵といえども手厚く治療した。好川氏は、この凌雲が示した方針をもって、 

日本初の赤十字精神が箱館病院で発祥する


と記した。 

    しかし、この人道主義を戦争の現実が血で塗り潰すような惨事が出来する。五稜郭を攻略せんとする新政府軍の総攻撃が行われた明治二年五月十一日のことである。 話が本筋より逸れるが、土方歳三が討死したのもこの日である。この散華によって彼は‘敗者のヒーロー’として永遠に生き続けることになった。 

    箱館病院は凌雲の下で改築拡張され、さらに本院から五町(545メートル)ほどのところにある高龍寺も分院に当てられた。戦況の切迫に伴い、ここに常駐を命じられていたのが病院掛補佐の木下晦蔵(館山藩士)、そして医員の赤城信一だったのである。

   箱館の市中に乱入した新政府軍の一部の兵士が箱館病院本院および高龍寺分院を襲い、本院は凌雲の胆力と居合わせた薩摩の部隊の旗頭の配慮によって難を免れたが、分院は興奮状態の津軽松前藩兵の剣刃に曝されてしまった。 

   このような事件について見ていく場合、本来は当事者の証言や回顧を用いるのが常道ではあるが、ここでは『夜明けの雷鳴』から引用することとする。吉村氏のことであるから、確かな史料を用いていることは疑いないが、それを下敷きにした臨場感ある描写は、さすがとしか言いようがない。   

   人声と足音が近づき、立ち上がった凌雲はドアの外に出た。かれは、立ちすくんだ。町の者らしい男たちが、二人の血に染った者をそれぞれ戸板にのせて病院の入口から入ってくる。その後から、分院の高龍寺に収容していた傷病者たちが、男たちに腕をかかえられたり長い杖を突いてつづいている。

   蓮沼と伊東が、かれらを講堂に導き、凌雲も入った。入口に、ざんばら髪の男が町の者に付き添われて姿を見せ、足をふらつかせながら凌雲に近づいてきた。医員の赤城であった。 「何事だ。いかがいたした」 凌雲は、赤城に視線を据えた。 講堂の床に戸板がおろされて傷病者たちが腰をおろし、身を横たえている者もいる。 「無念です。木下殿は斬り殺されました」 赤城の眼は、うつろであった。 「殺された?」 凌雲は、眼を大きく開いた。 赤城が、唇をかみしめながらかすれた声で説明した。

   夕刻近くなって、山門から入ってきた二、三十人の官軍の兵が高龍寺の寺内を探り、分院にあてられている建物に踏み込んできた。手にした旗その他で松前津軽両藩の者であるのを知った。病院掛補佐の木下が、かれらの前に進み出て箱館病院の分院であることを告げ、ロシア領事より保護の確約を受けているので、傷病者を助命して欲しいと懇願した。

   しかし、兵たちはいきり立ち、木下の言葉に耳を籍そうとしない。(中略) かれらは、殺せ、殺せと叫び合い、松前藩の者が木下に斬りつけ、それがきっかけで他の者たちも木下の体に刀をたたきつけた。さらに赤城を突き倒して縛り上げ、その動きに傷病者たちは恐れおののき、重傷者は寝台から床にころがり落ち、軽傷病者たちは、病室の 壁に背を貼り付けた。

  「賊、賊」 と叫びながら兵たちが病室になだれ込み、傷病者たちに刀をふるった。 たちまち病室に血が飛び散り、十数名の傷病者たちが斬殺された。さらに兵たちは、病室に火を放って喚声をあげ、引揚げていった。 

   たちまち炎がひろがり、歩行も叶わぬ傷病者たちは、せまってくる火に悲鳴をあげた。それを耳にした附近の町の男たちが駆けつけ、かれらを救い出し、赤城の縄も解いて連れ出した。火勢は強く、救い出せぬ重傷病者もいたという。 

   凌雲は、呆然とした。 (中略) 凌雲の胸に激しい怒りがつき上げた。戦う力を失った傷つき病んだ者たちを容赦なく殺害した兵たちは、町の男たちが言うように人間ではない、と思った。木下をはじめ斬り殺され焼死した傷病者たちの無念が思われ、哀れであった。 

    相手が悪かった、とも言える。 榎本軍の蝦夷侵攻の劈頭、これと戦って本州まで敗走したのが津軽松前の両藩であった。さらに松前にいたっては、城を攻め落とされ、戦火により城下は七千五百戸のうち五千戸を焼失する壊滅的被害を蒙り、落ち延びた藩主松前徳廣は、避難先の津軽に至った直後に病死してしまった。藩士達の恨みは文字通り骨髄に徹していたのである。 因みに、里見浩太朗榎本武揚を、渡哲也が土方歳三を演じたテレビ時代劇「五稜郭」の高龍寺の惨劇の場面では、新政府軍の兵達が「貴様ら、会津か」と喚きながら狂ったように傷病者に斬りつけていた記憶があるが、好川氏はこの時の犠牲者に会津藩士がいたかは不明である、としている。 これより七日後の十八日、五稜郭は開城する。

   新政府に降った赤城信一の身は久留米藩にお預けとなり、後に赦免されて明治五年二月、開拓使に出仕して函館に移住した。舞い戻った、という感じである。

    明治二年九月、旧会津藩松平容保は罪を許され、家名再興が認められた。さらに旧盛岡藩領下北に三万石を賜り、斗南藩が立藩されたが、四年の廃藩置県をもって刹那の歴史を終えていた。 上田氏によれば、箱館戦争後の赤城信一の足跡を教えてくれる資史料はごく少ないという。

   現在の国道三十六号線、札幌本道が開通した明治六、七年の頃にはすでに室蘭病院で医療活動に従事していたとされる。 室蘭病院は七年に室蘭出張病院、翌八年に札幌病院直轄室蘭病院出張所、さらに九年に札幌病院室蘭出張所とめまぐるしく名称を変えて明治十五年に官立から公立へと移管して室蘭公立病院となった。赤城はその院長に任じられた。今日の市立室蘭総合病院である。名称のみならず所在地も札幌通りを小刻みに転々とし、公立化の時点では西小路町にあった。院長赤城信一の居宅も西小路に構えられた。 

   この間、当地の疾病史的には七年頃に瘧病すなわち少々意外だがマラリアが流行し、同じ頃に天然痘、さらに赤城が院長に雇い入れられた頃には有珠でコレラが猖獗した。     

   就任の前年、明治十四年は彼につき特筆すべきことがいくつかあった年であった。 まずは、言うまでもなく八月に同志とともに行った吊魂碑の建立である。 そして九月には明治帝の室蘭行幸があった。その際、随行してきた有栖川宮熾仁親王が宿所としたのが赤城宅であったというのである。 有名なトンヤレ節で「宮さん宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな」と唄われたあの「宮さん」である。 

   赤城の孫娘で片倉小十郎家の長女である片倉こうが、面白い逸話を語り残している。 

   おみその樽に宮様お入りになった。 

   つまり、赤城の家では自家で味噌を手作りしていた。その味噌樽を洗い、風呂桶として宮に供したというのである。 

   こうが「あそこの家なら(宮の宿泊所として)よかった、今考えても広くて海のみはらしで」と振り返ったとおり、眺望抜群の場所である。     

   現代の西小路を歩いて、今自分が眺めている山や湾、そして坂が幾分かでも宮が見た風景の余蘊を留めているかと思えば、ちょっとした感慨も覚えるが、実際に宮を迎えた赤城の心境は複雑なものであったに違いない。まず、かつて徳川討伐軍の総司令官である東征大総督だった人物に、「賊軍」出身の己が家宅を宿所として献じていることに、我が身の置かれた立場の激変を感じたことであろう。しかし、吊魂碑の建立はこの宮の宿泊のわずか十日ほど前のことなのである。郷党、そして己の無念を捨ててしまっていたわけでは全 くなかった。だとすれば、宮の来臨は赤城にとっては栄誉を喜ぶよりもむしろ己の立場を自問する契機となったかもしれない。

    十七年には雇継すなわち契約が延長されて院長職をさらに一期務めることとなる。しかし、十八年には赤城を放逐しようという動きがあったとされる。誰が、いかなる理由でかは今一つ明瞭でない。ただ、彼の生涯には、上司の不興を買い、朋輩と角逐するという出来事が一度ならずあり、あるいは敵を作る圭角の持ち主であったのかもしれない。 

   そして十九年、契約満期をもって退任、室蘭も離れて伊達に移り住むことになる。ただ、上田智夫氏は退任の背景には彼の信仰も問題となったのではないかと推測している。 

    赤城がプロテスタントに入信したのは、この頃のことであった。彼に熱心に洗礼を勧めたのは、室蘭郡長の田村顕充である。以前紹介した(21/12/27『新聞記者と殿様』)、亘理伊達の‘名家老’である。

   田村は、室蘭を訪れた押川方義の説教に感銘を受け、旧主伊達家の一族とともに洗礼を受けた。ほぼ時を同じくして他の信者たちとともに教会堂建築を計画し、二十年に紋鼈教会を設立した。赤城もまた押川により受洗し、紋鼈教会の建築費も寄付している。   

   室蘭では郡長田村以下、官吏、大商人といった有力者がことごとく入信する教勢を示した。しかし、時代を思えば宜なることにも思えるが、だからこそ仏教徒も激しく反発し、憂慮すべき対立の火種となったのである。

   伊達に転住した赤城は長老として礼拝および教会運営において重きをなしたが、二年後に札幌へ転出、開業する。道都にあっても信仰への熱を保ち、札幌北一条教会の設立に参画、ここでも長老を務めた。

   二十九年二月、札幌で没した。 好川之範氏の著作を読むと、維新後に北海道に移り住んだ旧会津藩士達は多かれ少なかれ戊辰戦争で肉親を失っていることが分かる。のみならず生き残った当人も‘賊軍’の出自が出世の妨げになるなど不当な扱いを受けた。

   この部分、断言は出来ないが、吊魂碑の建立有志に名を連ねた赤城信一もまた、戊辰戦争の開幕から終幕までを戦ったという戦歴、そして高龍寺での凄絶な体験を思えば、維新後の会津人の情念の中にあったと考えるほうが無理がないように感じられる。 

   そして、歴史に関心を持ち続ける者には、赤城という存在が日本史と室蘭の郷土史の結節点の一つになっているように思える。吊魂碑はそれを象徴する遺物であり、また言い過ぎの誹りを恐れずに述べれば、彼がその草分けを担ったことが、室蘭の医療を江戸幕府の洋方医学、それも将軍の健康を管理した医師達の系譜に連ねることとなった。 

   満冏寺の碑は自らが何者であるかを名告らない。しかし、こちらが問えば実に多くの事どもと関わる者たちの想いを語ってくれる。