理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

今も入居中

  この日札幌なる向井君より北門新報校正係に口ありとのたより来る。
  石川啄木は明治四十年(1907年)九月八日の日誌に記している。

 この年の五月に渡道した啄木は、函館で小学校の代用教員の職を得、次いで函館日日新聞の記者に転じた。
  彼ほど安定と縁遠い者も珍しい。家族を呼び寄せてほどなく、函館は大火に見舞われ、勤め先も焼尽した。街中に溢れた失業者の一人に彼もなった。
   途方に暮れていたところ、知友の道庁職員向井永太郎が救護活動のため札幌から函館入りしてきた。向井は函館に在住していたことがあり、当地の同人誌を通じて通交があったのである。無名の若き歌人は、藁にも縋る思いで就職の口利きをこれに依頼した。
   道都に戻った向井は、北門新報社の小国露堂に啄木の件を取り次いだ。啄木の同郷人である。小国の骨折りで北門への入社が決まった。
   妻には後より来るよう言い含め、十三日に未だ焦げ臭さの漂う函館を発し、翌十四日の昼過ぎ、小雨の降る札幌に至った。停車場には向井ともう一人、下宿を同じくする松岡政之助という者が出迎えた。
   この時の情景および印象を「札幌」という小品に記している。
   改札口から広場に出ると、私は一寸立停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤの街なみき)は、蕭条たる秋の雨に遠く遠く煙つてゐる。其下を往来する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いている様に見える。蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、周匝(あたり)の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。

   坂ばかりの港町と見渡す限り雄大な平野の内陸の街、古い街と新しい街、温暖な道南と寒く乾燥した道央と、同じ道内でも函館と札幌は全く異なる個性を持つ。旅情が、ただでさえ感性鋭敏で惚れっぽい詩人の詩心を刺激した。

   今札幌に貸家殆ど一軒もなく下宿屋も満員なりといふ。
   考えることは皆同じようで、函館で焼け出された人々に、札幌小樽に身を寄せる者も多かったようである。
   駅にほど近い向井、松岡の下宿に転がり込んだ。
   下宿の女主人は田中サトという四十絡みの「品のある、気の確乎(しっかり)した、西国訛りのある」未亡人であった。

好川之範『北の会津士魂』より

  家内には主人の身内である、二人の娘と遠い親戚だという男が同居していた。
   この札幌初日の晩を『一握の砂』に詠んでいる。
   わが宿の  姉と妹の  いさかひに
   初夜過ぎゆきし
   札幌の雨
  他愛のない姉妹の口喧嘩を聞くともなしに聞きながら、我が身の変転の切なさを思い、涙を零した。

  明くる日は、朝から向井に伴われ、就職の労をとってくれた小国露堂を訪ねた。日誌には「又快男児なり岩手宮古の人」と書き留めている。
  この日は日曜である。午後は市中を散策に出た。
   札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり。

アカシアの騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は水沁みて寒く口に啣めば甘味なし。札幌は秋意漸く深きなり。

   函館の如く市中を見下ろす所なければ市の広さなと解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧する許り天広し。市の中央を流るる小川を創成川といふ。うれしき名なり。札幌は詩人の住むべき地なり。なつかしき地なり静かなる地なり。

  「大なる田舎」の落ち着きは、大火、転居、そして明日は新しい就職先に出社と、慌ただしさと不安に磨り潰されそうな啄木の心を穏やかにしたようである。だとしても、一度歩いただけで詩人の住むべき」「なつかしき地」とは、良くも悪くも情熱的で移り気な啄木の気質を表しているとも感じさせられる。

    十六日に北門新報社に初出社、十七日に同紙に寄稿した札幌印象記「秋風記」には、

   札幌に似合へるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり。


   札幌は寔に美しき北の都なり。

と綴っている。

   しかし、札幌への愛を述べた三日後には、早くもその「美しき北の都」を捨てる決断を迫られている。

   二十日夜、己を北門に入れた小国露堂より、新しく、それも十日ほど後に創刊される小樽日報への移籍を勧められたのである。

   北門は腰掛け、と初めから啄木と露堂の間で合意があったのか、それとも露堂が啄木の人柄や暮らしぶり、働きを見てにわかに動いたのか、その辺りは分明ではない。

   ただ、啄木の側に北門入りを悔いる気持ちがあったのは確かなようである。前日十九日には下のような心懐を日誌に認めている。

   ああ我誤てるかな。予が天職は遂に文学なりき。何をか惑ひ又何をか悩める。喰ふの路さへあらば我は安んじて文芸の事に励むべきのみ。この道を外にして予の生存の意義なし目的なし奮励なし。予は過去に於て余りに生活の為めに心を痛むる事繁くして時に此一大天職を忘れたる事なきにあらざりき、誤れるかな、予はただ予の全力を挙げて筆をとるべきのみ。

    いざ勤めを始めてみて、「こんなはずではなかった」と後悔させる何事かが分明になったのであろう。無論、一つは俸給の問題であったろう。養わなければならない妻子は啄木を追ってすでに小樽まで出てきていた。実生活に憂いなく、「天職」に身を捧げられる環境を求めたのであろう。 

   二十三日には、北一条西十丁目にある露堂の下宿で再び相談している。ここで

   小国君より話ありたる小樽日報社に転ずるの件確定

    したとある。が、本当にこの日に「確定」したかについては留保が必要かもしれない。

   ドナルド・キーン氏は、この時期の啄木の日誌について、「実に読みにくい。多分多くの項は、事実の記憶が曖昧になった後日に書かれたのではないか」としているが、確かに日誌に書かれていることを同時期の書簡や関係者の回想と照合してみると、合致しない、あるいは抜け落ちたと思われる事柄がいくつか確認できる。

   この二十三日密談で、後に啄木が「予の最近の閲歴と密接な関係のあつた人」と振り返るに至る人物を引き合わされることになる。

   野口雨情である。「赤い靴」、「しゃぼん玉」、「七つの子」など、現代においても知らぬ人のない童謡の数々を作詞することになる。   

   この時彼は北鳴新聞の記者で、やはり小樽日報に乗り換える意思を持っていたが、ここに至るまでに人に騙され、事業にも失敗して尾羽打ち枯らしたどん底の時にあった。語りあううち、

    予は早速野口君を好い人だと思つて了つた。

   という。その惚れ込みようは、後に啄木が流れ流れて釧路まで流れ着いた後も愛人の芸者小奴に雨情の思い出を始終語っていたほどである。

     物腰柔らかく控え目で、老熟した雰囲気の一方、「隠謀家」の暗さを湛えた雨情の奥行きに啄木は魅了されたのである。四歳上の雨情に、‘大人’を見出したのかもしれない。

   数日後、今度は啄木から雨情を訪ねている。当時、雨情が寄寓していたのは、大通の花屋という下宿屋であった。

   雨情はこの時の模様を「札幌時代の石川啄木」で振り返っているが、何分にも三十年後の回想である。記憶違いの部分を含む可能性があることも念頭に起きながら、下に引用する。

   ある朝、夜が明けて間もない頃と思ふ。

   「お客さんだ、お客さんだ」と女中が私を揺り起こす。

   「知ってる人かい、汚い着物を着てる坊さんだよ」と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある

                           (中略) 

顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣に色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいつて来た。時は十月に近い九月の末だから、内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や羽織では見すぼらしくて仕方がない。殊に札幌となると内地より寒さが早く来る、頭の刈り方は普通と違って一分の丸刈である。女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。

                            (中略)

   私は大急ぎに顔を洗つて、戻つて来ると

   「煙草を頂戴しました」と言つて私の巻き煙草を甘さうに吹かしてゐる。

   「実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました」

   「煙草を売つてませんか」

    「いや売つてはゐますが、買ふ金が無くて買はれなかつたんです」と、大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ。この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。

    煙草の件などは、いかにも啄木といった感じがする。

   もっとも、この雨情との出会いが高給目当てであったはずの転職から思わぬ波瀾へと彼を導くことになる。それを思えば、啄木にとり果たして良い出会いであったかは何とも言えないものがある。


   ところで、大通公園三丁目の歌碑に刻まれた歌は、

   しんとして幅広き街の

   秋の夜の

   玉蜀黍の焼くるにほいよ

である。

   これに関する逸話も田中家の屋根の下で生まれている。

   向井永太郎の妻イチの回顧である。

   外出から帰ってきた石川さんが、わたしたちの部屋に入ってきてね、「お土産を買ってきましたよ」って言うんだよ。「石川さん、玉蜀黍でしょう」わたしがそう言うと、「奥さん、よく分かりましたね」って驚くのさ。「だってぷんぷん匂いがしますもの」って言ったら、石川さん笑ってね、羊羹色の紋つき羽織のたもとから、玉蜀黍を出すんだよ。

   変人じみてもいるが、啄木の底抜けの無邪気さも表す本当に微笑ましい逸話である。 

   そして、啄木の札幌と言えば、田中家の長女久子の存在を素通りするわけにはいかない。

  その年の春、さる外国人の建ててゐる女学校を卒業したとかで、 

                           (中略)

  丸顔の色の白い、何処と言つて美しい点はないが、少し藪睨みの気味なのと、片笑靨のあるのとに人好きのする表情があつた。女学校出とは思われぬ様な温雅(しとや)かな娘で、絶え絶えな声を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。

  「さる外国人の建ててゐる女学校」とは、札幌北星女学校すなわち今日の北星学園である。

  下の一場面は、一日の昼下がり、玄関続きの八畳間に据えた机に向かう久子を見留めた時のものである。

   編物に惓きたといふ態で、肩肘を机に付き、編物の針で小さい硝子の罎に挿した花を突ついてゐた。豌豆の花の少し大きい様な花であつた。

  「何です、その花?」と私は何気なく言つた。

   「スヰイトビインです」

   よく聞えなかつたので聞直すと、

   「あの、遊蝶花とか言ふさうで御座います」

   「さうですか。これですかスヰイトビインと    

 言ふのは」

     「お好きで被入(いらっしゃ)いますか?」

     「さう!可愛いらしい花ですね」

   見ると、耳の根を仄(ほんの)りと紅くしてゐる。

   留まっていた小樽から田中家に顔を出した啄木の妻節子は、女の直感で感じ取るものがあったらしいが、恋などというものではなかったろう。落ち着かない日々の中で久子という十八歳の少女そのものが心を潤す一輪の花だったのではないか。

   啄木は、多くの人、もしかすると当人すら見落としている女性の美を見つけ、そして女性に愛される名人であったと思う。


   九月二十七日、啄木は札幌を発ち、小樽へ向かった。去り際、田中家の母サトから久子の就職の斡旋を頼まれた。何やら恃む相手を間違えているような気もしないでもないが、兎も角啄木は結局果たせはしなかったものの、久子のために骨を折ってやった。

   そして久子を「スイートピーの君」と形容して後々まで懐かしんだ。

  昭和七年、田中家が営む「洋風擬ひの建物の、素人下宿」は解体された。郵便局を経て今はビルとなっている。しかし、建物は変わっても啄木だけは今も同じ北七条西四丁目に留まっている。

   札幌駅周辺でも一際賑やかな一画に立つビルの入口に、ガラスケースに入った薄幸の歌人の胸像がひっそりとある。「静かなる街」とはほど遠い人と車の喧騒に遠慮気味な目を向けている。

   はじめは北区役所、やがて田中家跡地の北七条郵便局に帰還した。郵便局は移転したが、生前漂白を重ねた歌人は、像になってからは同じ場所に留まったのである。制作者はラーメン屋を本職とするアマチュア彫刻家、というユニークな出自を持つ。

  彼が札幌に似合うと言った平屋造りは全く鳴りを潜め、「幾層の高楼」が林立し、「頭を圧する許り」であった空は小さくなってしまった。現在進行中の駅周辺の再開発により、啄木が見上げた天はますます小さくなるのかもしれない。

   小樽に移った啄木は、まるで早々と小樽日報を終われた野口雨情の驥尾に付すかのようにわずか三ヶ月ほどで小樽を離れ、東の釧路へと流転を重ねることとなる。刹那の札幌の日々を

札幌の二週間ほど、慌しい様な懐かしい記憶を私の心に残した土地は無い。

                          (中略)

石狩平原の中央の都の光景は、ややもすると私の目に浮かんで来て、優しい伯母かなんぞの様に心を牽引(ひきつ)ける。一年なり、二年なり、何時かは行つて住んで見たい様に思ふ。

と振り返っている。

   啄木にとり、札幌には、彼が住んだ道内の他の街とは明らかに違う点がある。嫌な思い出が札幌には何一つないのである。
   彼の瞼の裏に残るのは、静謐で、少し寂しくもある秋の街並と空の美しさ、スイートピーのように健気な少女の姿であった。