理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

日向は三度(みたび)

    今日がその日であることを失念していたため、白鳥大橋を運転していて足元の巨大な艦体に驚いた。

   二十九日、海自のヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」が室蘭市の祝津埠頭に入港、三十日と三十一日の両日、一般公開された。

   何に関しても説明の労を惜しむ街だが、今このタイミングでその威容を胆振の港町に現したのは、恐らくは開港百五十年を記念し、二十九日より開催中のむろらん港まつりに合わせて招かれたものであろう。

   兎も角、当方も伊達市で多少急ぎめに用を足して室蘭に戻り、見学させていただいた。軍艦の内部に足を踏み入れるのは、子供の頃に小樽に入港した米第七艦隊の旗艦ブルー・リッジ以来だから三十年ぶりとなる。父が軍艦大好き人間で、いつも雑誌「丸」や「世界の艦船」を読んでいたのを思い出した。


   見学者はまず格納庫に入り、艦橋横の昇降機に乗せられ、飛行甲板に出る。昇降機が降りてきて、薄暗い格納庫に徐々に陽光が射し込んでくる感じが、軍事・兵器に蒙い私には、「ウルトラセブン」でウルトラ警備隊のウルトラホークが発進するシーンを想起させられて格好良かった。



   昇降機よりさらに奥の火気厳禁の注意書に何だかどきりとしたのは、あくまで個人的事情で、前日たまたま読んでいたのが吉村昭の『陸奥爆沈』だったからである。縁起でもないが。

   甲板に上がると、兵装は、いかにヘリ空母とはいえ随分すっきりしているのだなと感じた。艦首の機銃が目につくばかりで、先の戦争を描いた映画等で見る、対空装備の類が見られなかった。どうも私の水上兵力の知識は八十年前で停止している。



   そして海上、それも高い目線から見渡す湾の景色は新鮮で美しかった。


    それはそれとして、艦内を歩いていて、途中で心の中で引っかかりだしたことがあった。

「ひゅうが」は言うまでもなく、帝国海軍の戦艦「日向」の名を引き継いでいる。この艦名の継承にも意味があるはずで、「日向」は戦中、空母不足を補填する苦肉の策として、他国でも例のない航空戦艦に改装された。だからこそ同じような機能を付された艦として、海自が初めて保有した飛行甲板型護衛艦にこのユニークな戦艦の名が与えられたのだろう。

    その戦艦「日向」の名を、当地の歴史を調べていてどこかで目にした記憶があったのである。帰宅後調べてみたところ、やはり「日向」は、室蘭の歴史に幾度か現れていた。その名を受け継ぐ「ひゅうが」の派遣は、海上自衛隊の粋な配慮によるものであったのであろう。この街の、歴史を土台とした節目を飾るに「ひゅうが」ほど相応しい艦はないとさえ言える。

    『昭和天皇実録』を繙くと、大正十一年(1922)七月、北海道を行啓した裕仁皇太子すなわち後の昭和帝の御召艦として室蘭港に碇泊したのが戦艦「日向」であった。

   この昭和帝の室蘭来駕の模様については、かつて「本館」にて紹介したので、ここでは「日向」との関わりのみを記す。

 

(ソウルフードの伝説https://plaza.rakuten.co.jp/toyohara/diary/20210913/

   七月六日に御召列車に身を投じた皇太子は、鉄路で北上して青森で「日向」に座乗、函館に向かった。供奉艦は第三艦隊旗艦「春日」で、指揮を執ったのは後に侍従長、そして首相として昭和帝に仕えることになる鈴木貫太郎である。

   同日午後に上陸後、文字通り道内各地を隅々巡った後、鶴駕は二十二日に室蘭に至った。駅よりほど近い水上署桟橋から水雷艇ですでに入港していた「日向」へ移動、時刻はすでに午後八時に近く、第七師団長内野辰次郎、第三艦隊司令長官鈴木貫太郎、東宮大夫珍田捨巳ら諸臣とともに夕食を摂った。この間、

 

艦外では室蘭区内各小中学校生徒・青年団・在郷軍人その他が乗船する提灯船が軍艦日向の近くを列をなして航行し、花火を上げ、万歳を唱える。軍艦日向及び供奉艦は電光満艦飾を施し、探照灯を発して応える。(『昭和天皇実録』)


八時三十分何れも終了したるが彩華空に散り、燈影波に映じ其状極めて美観を呈し、畏くも艦上に玉體を現はし給ひて、御提燈を御手にせられつつ、奉唱する萬歳に御答禮あらせられたり。(『室蘭市史』)

 

とある。丁度百年前の今頃、ハレの日を迎えた室蘭港の夜は、地元民と「日向」の放つとりどりの光でその水面と空を華やかに染められたのである。

    翌二十三日、日本製鋼所、室蘭中学校、八幡社等を巡覧、関係者に謁を賜わった皇太子は「日向」に帰艦、奉送の万歳の中、午後三時半に横須賀に向け出港した。明くる二十四日は、

 

   終日御航海。午後、デッキゴルフをされ、その後、乗組員の撃剣・柔道・銃剣術等を御覧になる。御夕餐後、乗組員の相撲を御覧になる。

 

と、『昭和天皇実録』にあり、寛いで過ごしたようであるが、鈴木貫太郎もまたこの時の皇太子の様子を回想している。

 

その時に三陸沖までは天気が良かったが、それから低気圧が続いて常陸から上総房州へかけて非常に大きなうねりがあり、日向のごとき大きな船でも十五、六度から二十度くらいまで傾きましたろう。摂政宮殿下は船に強くいらせらるるが、ご自身では強いと仰せになりません。でも船の中では時折甲板にお出ましになって、別にご疲労のご様子も拝せず、そして非常に海上のご生活をお楽しみのご様子に拝しました。私は船の中ではいつもお相手を仰せつかって光栄な幾日かをお伴に過ごしました。

 

  それより十二年後の昭和九年(1934)八月二十九日、連合艦隊が最初で最後の室蘭入港を果たした。第一、第二艦隊よりなる六十六隻で、世界屈指の海軍国日本の水上戦力が白鳥湾に結集したかのような壮観を呈した。

   入港した艦隊は、戦艦、重巡、空母が港外の大黒島から黄金沖に、軽巡以下は港内に碇泊し、駆逐艦は岸壁に繋留した。

    旗艦の「金剛」は後にガダルカナル攻防戦で「榛名」とともに三式弾を撃ちまくってヘンダーソン飛行場を火の海にした艦である。また「比叡」は、第三次ソロモン海戦で勇戦し、壮絶な最期を遂げることになる。「赤城」は、今さら説明は必要あるまい。対米戦劈頭の快進撃を牽引した主役級の空母である。この他にも重巡では「鳥海」、「摩耶」、「愛宕」など太平洋の日米の死闘を語る上では欠くことのできない艦名が並ぶ。
     
   これを率いる司令長官はこれまた大物の末次信正である。軍令部次長の職にあった時はロンドン海軍軍縮条約に猛烈に抵抗し、統帥権干犯問題を惹起した海軍きっての艦隊派、そして対米強硬派である。       
  「日向」もまた、この時懐深い湾に舳先を連ねた一隻である。艦長の沢本頼雄は、日米開戦前後のかなり重要な時期に海軍次官を務めることになる人物である。    
   また「扶桑」には、昭和天皇の弟宮宣仁親王が分隊長として勤務していた。
   海岸町には高さ約十年メートルの歓迎門が設けられ、税関前には仮桟橋が造られた。また、上陸する乗組員へのサービスとしては入浴券二万六千枚が贈られ、料理屋は二割引、映画館は半額になった。
   商工会議所や小学校など市内各所に乗組員休憩所が置かれ、茶菓の接待の他、芸妓の舞踊や小学校児童の出し物、アイヌの熊祭が催された。
   高野三代作氏の「室蘭港に入港した連合艦隊の思い出」には、 

入港の翌日から二日間兵員の半数(約一万三千人)上陸したので、市内は到る処海軍々股の白一色に塗りつぶされ、頗る賑いを見せ殊に岸壁附近は、ランチやボートから乗降する将兵で雑踏を極めた。夜は各艦から照射するサーチライトが上空で交錯し、恰も不夜城の如き観を呈した。  

とある。幕西の遊郭も大繁盛だったことと思うが、市内に溢れたのは軍人軍属だけではなかった。市民および近郊の住民は元より、遠く夕張方面からも見学学徒団が臨時列車を仕立てて室蘭入りするなど、市外からの参観者は実に五万超を数えた。この時代でもそうだったのかと思うが、艦内の見学が許されたので、これら見学者を乗せる艀業者が休む暇なく艦と岸壁を往き来していたという。
          

    九月一日、艦隊は第二艦隊旗艦「鳥海」を先頭に次の寄港地函館を指して出港した。これも現代の我々からすれば羨ましい限りのサービスだが、希望する一般市民は函館まで便乗できたという。二千人に上った希望者達が乗り込んだ艦が「扶桑」そして「日向」だった。
   こうして見てみると、当時の室蘭っ子にとり「日向」とは何とも親しみの持てる軍艦だったのではないだろうか。戦後もかなり後まで室蘭市内には「俺は『日向』に乗って函館まで行ったんだ」と自慢する人が間違いなくいたはずである。そもそもその時点ではまだ記憶に新しい、室蘭に来た聖上が乗った艦なのであるから、格好の自慢の種となろう。
    昭和九年の来港で、室蘭市民に留まらず多くの道民を驚かせ、海軍大国の誇りも与えてくれた軍艦達は、概ね昭和十九年の捷一号作戦が終わった頃にはその大半が海から姿を消した。その中で「日向」はよく生き残ったが、終戦まで命を保つことは叶わなかった。その最期は悲しいものであった。        
    帝国海軍が事実上壊滅した捷一号作戦からも生還した「日向」だったが、その後燃料不足およびそれまでに受けた損傷のため、呉で特殊警備艦として浮砲台の任務への従事を余儀なくされる。
   七月十日から同三十日にかけて実に十五隻もの空母、さらにはB29までが参加して行われた、ほぼ日本全土の主要都市が空爆や艦砲射撃の標的となった連合軍機動部隊の襲来では、二十四日、呉軍港もまた徹底的に破壊された。激しく抵抗した「日向」もまた、米艦載機の波状攻撃の前についに力尽きた。終戦の三週間ほど前のことである。二十二年に解体された。 
   戦史叢書『大本営海軍部 連合艦隊』には、「日向」が受けた損害について  

大破傾斜一二度 上甲板以下満水 

とある。その痛々しい姿は、youtubeにてカラー映像で確認できる。

   「日向」が室蘭の歴史の中でも特に大きく記されるべき出来事でその役割を果たしたのが、上に紹介した二つの公式行事においてであったが、入港そのものはその二回には留まらなかったと思われる。    
    終戦間際、室蘭の人の心に残る戦艦は刀折れ矢尽き、無残にも鉄塊と化した。しかし、平成の世に「ひゅうが」として甦り、令和の世に至って、この港の大切な節目を祝うべく、艦尾の軍艦旗をはためかせて駆けつけてきた。艦に心があるとすれば、自分でなければ誰が行くのだと思っているかのようだ。   
   港と艦の結びつきに、感動さえ覚える。