理髪師の井戸〜新館〜

日本史と郷土史が繋がった瞬間と、通史の舞台裏

御前水の軍神

21/5/4の「本館」記事を修正の上、転載。

   日本製鋼所は、室蘭市茶津町が創業の地である。火入れは、明治四十(1907)年五月五日であった。『新室蘭市史』によると、この日が選ばれたのは、菖蒲の日が、語呂的に尚武に通じるからだという。 日本初の民間兵器工場だけに始まりが武張っている。

   陸海軍、ことに海軍の強力な支援を受けて設立された。中でも設立に力を注いだのは呉鎮守府司令官の中将、山内万寿治である。会社が立ち上がるに際し、司令官のまま社の顧問に就任した。 大型砲その他の最新兵器も製造可能な高炉そして精密機械を備え、実際、長門や陸奥、大和といった帝国海軍が誇る戦艦の一部の生産もこの工場が担った。    

   翌年八月には、工場に間近い今日の御前水町に社の鎮守である御傘山神社が創建された。 社名には由来がある。創建地においての地鎮祭の折、顧問の山内の演説が終わるか終わらぬかという時に俄かな大雨に見舞われた。言うまでもなく、重工業に水は不可欠の資源である。木陰に身を置きながら山内は神意を感じ、古今和歌集東歌の 


みさぶらひ 

御傘とまをせ 

宮城野の  

木の下露は 

雨にまされり 


に因み、御傘山の名を奉献した。     

   話しはここで終わらない。その帰途、創建予定地からさほど遠くない場所に泉を見た。傍らに問うたところ、十四年に明治帝が室蘭に来駕した際、この辺りで休息をとった。その砌に献じた水を汲んだ泉だという。 驟雨に次いで、今度は当今との所縁を持つ泉である。国策と深い関わりを持つ工場を鎮護する神を祀る場はここ以外にない、と鎮座の地をここに更めた。 

   何ともこの街らしい成り立ちを持つこの神社に伺ったのは、四月の下旬、当地の桜の開花が宣言される二、三日前のことであった。     

   域外のすぐ側の小高い場所に「明治天皇御野立所蹟」がある。当時はここから港内がよく見えたであろう。そして鳥居を潜れば、すぐに清水を汲んだ泉がある。天沢泉の名が石碑の一面に刻されている。これに因み、近所にある小学校の校名も天沢を冠しているようである。命名者は、御歌所所長や枢密顧問官を務めた宮廷歌人、高崎正風である。     

   薩摩の人である。幕末の島津家で出来した御家騒動を一名高崎崩れとも呼ぶ。藩主斉興の隠居と斉彬の襲封、そしてそれを阻む斉興の愛妾お由羅の一派の排除を目論んだ舟奉行、高崎五郎右衛門等が切腹を申し付けられたことに因る。この五郎右衛門の子が正風である。    

   正風自身も幕末争乱のかなり重要な局面で暗躍した人物として、歴史にその名が刻まれた。 八・一八の政変である。七卿落ちで知られる、薩摩と会津等が主導して長州と過激派の公卿を京から駆逐したクーデターである。この時、会津藩に接触して薩会盟約への道筋を付けたのが正風であった。     

   地元小学校の美しい名が幕末の京の政界に暗躍した薩摩の歌人に由来しているというのは、かなり興味深い。当地の歴史を渉猟していると、意外な人物の出現にしばしば驚かされる。それが堪らなく面白い。     

   さらに本殿でも、神額の「一戸兵衛 謹書」の字をみつけ、思いもしなかった名との出会に驚く。 一戸は、弘前出身の陸軍軍人である。大将まで上り詰め、陸軍三長官の一つである教育総監、さらには学習院院長や明治神宮宮司といった顕職を歴任した。   意外な取り合わせながら、同郷の太宰治が『津軽』の中で、一戸の逸話を記している。 

この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であったという話を聞いている。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴と決めて居られたという(後略)     

   一戸の武名を不朽のものとしたのは、日露戦争の旅順攻囲戦である。言わずもがな、旅順要塞は山そのものが巨大な殺戮装置のような近代要塞である。もしかすると、人類にとって初遭遇の怪物であったのかもしれない。 

   一戸は、太宰が紹介した逸話に似ぬ猛将タイプの指揮官であった。明治三十七年八月の第一回総攻撃では、麾下の旅団六千が六百に磨り減るまで戦った。二人の連隊長、五人の大隊長が戦死し、遂に自ら部隊を指揮して二箇所の堡塁を奪取した。十数度に渡るロシア軍の逆襲をも凌ぎ、ついに全軍で唯一、旅順要塞の一部を占拠するに至った。第三次の総攻撃でも自ら第一線で指揮を執り、ここでもただ独り、堡塁を確保した。それまでPの符丁が付されていた占拠堡塁には、一戸堡塁の呼び名が与えられた。 

    なぜ、揮毫者が一戸なのか、須臾の間、考えた。それで室蘭が三つの岩木山神社が鎮まる津軽衆の多い土地であることを思い出した。津軽の地縁が一戸に筆をとらせたのであろう。 本殿の右手には富山稲荷があり、左手には乃木神社がある。無論、後者は、東京赤坂の乃木神社より分祠したものである。御祭神は、陸軍大将乃木希典、その妻の静子、長子の中尉勝典、次子の少尉保典である。 昭和三(1928)年の乃木講社の結成が濫觴であり、同六年に社殿が建立された。  

   石碑の「乃木大神」は、当時、日本製鋼所の陸軍検査官として当地にあった長谷川正道の揮毫である。室蘭の乃木神社の創建を唱導したのは、この長谷川であった。

   少年時代、実家が赤坂の乃木邸に近く、子の勝典、保典とは麻布小学校、幼年学校でそれぞれ同級だった。乃木が第二師団長であった時は、夏休み、父とともに仙台にあった兄弟を訪ねているほどだから、よほど仲が良かったのであろう。自宅に足を運ぶうちに父希典の謦咳に接し、私淑するに至った。後年、講演を基にした『景仰乃木将軍』という評伝を著した。  

   私事になるが、私の父はNHKドラマの「おしん」を視ると、お祖母ちゃん即ち私から見れば曽祖母に当たる人を思い出すと言う。何故おしんとイメージが重なるかといえば、家が貧しく、小さなうちから下女奉公に出ていたからである。学校に通う余裕などある訳もなかったから、基本的な読み書きも不自由だった。 困窮の理由は、一家の大黒柱を戦で喪っていたからである。旅順でも最大の山場となった二百三高地の攻略戦に一兵卒として参加し、戦死した。 そのまま映画の題名ともなったこの激戦場の司令官が他ならぬ乃木であった。つまり、一戸兵衛も乃木の麾下で戦ったのである。  

   司馬遼太郎は、『殉死』や『坂の上の雲』において、「無能」そして「不運」をもって軍人乃木を語る。 乃木の将器を評価する見識は当方にはない。が、「不運」に関しては誰が見てもそう思う。戦歴、そして戦績のいずれもそもそも軍人としての道を歩まざるを得なかったことが不幸であったと感じさせられる。そして、その悲劇の極め付けが、旅順攻略を任されたことであろう。第一次大戦の西部戦線の地獄を先取りしたような要塞の攻略を命じられたのが何故、よりにもよって乃木だったのかと、首を傾げるどころか暗澹とさせられる。

   日露戦争は、創建間もない国民国家の神話である。そして、旅順こそが日本海海戦と並ぶ、物語の山場であったというべきであろう。        

   かなり後まで、雨が降れば地表に脂が浮くと言われるほどの戦死者が生産された。それでも旅順は陥ちない。誰がやっても同じような結果であったかもしれないが、乃木は幾度も自殺を試みるほど耗弱した。     

   凱旋時、以下のような詩を詠んでいる。


    皇師百万  驕虜を征す 

    野戦攻城 屍山を作す 

    愧ず我何の顔あって父老に見えん 

    凱歌 今日幾人か帰る 


   御前で復命書を読み上げた際、途中で絶句し、ついに嗚咽した。他の将軍達は居たたまれずに座を外したという。 

   自らの統帥の拙劣さが宸襟を悩ませ、多くの父母、そして妻子を悲嘆の底に落としたことに苦悩しているわけだが、彼もまたこの戦役で遺族になっていた。子を二人ともに喪ったのである。勝典は南山で、保典は二百三高地で戦死していた。 

   当時の都都逸では、こう唄われた。 


    一人息子をと泣いてはすまぬ 

     二人失くした方もある 


    先の戦争において、無謀な作戦で数多の兵を殺したことで批判ないしは憎悪の的になった将はある。

   しかし、それより前の日露戦役で乃木の下で死んだ兵もまた夥しい。何万という遺族を生んだ。が、人々はむしろ同情と敬愛をもって彼を見た。 戦争が終わっても、悲劇の主役を降板することを己に許さなかった。 一将功成り万骨枯る、と唐の曹松は曰う。が、乃木だけは顕貴の職に据えられても、栄華とほど遠い生き方をした。質素に暮らし、彼を愛し、失態を犯すたびに庇ってくれた明治帝に郎等のように仕えた。

   もっとも、乃木のストイックで高い道徳性を持ち、己の責めから逃げなかった後半生を、長谷川のように手放しで‘景仰’したい一方で、私小説の作家が己の駄目さを曝し、ますます堕ちていくことに酔うのにどこか似たものを、優れた詩人であった乃木にも感じさせられもする。司令官としての罪を背負い、二人の子に先立たれた哀しみを押し殺し、中世の郎等のような、少々芝居がかった奉公ぶりに、悲劇の主人公を‘演じる’自意識のようなものを見てしまう。 

   が、私の曽祖母のような境遇にあった人は、乃木の己に厳しい生き方を見て「泣いては済まぬ」 と自分に言い聞かせたのであろう。乃木の存在そのものが当時無数にあった遺孤の慰めとなったのかもしれない。   

   境内には、乃木と前近代的な主従の‘情’で結ばれた明治帝があり、彼の麾下で戦った一戸兵衛がある。そして二百三高地で文字通り屍山血河を作した北鎮部隊は境内のある丘から見える港を出て大陸へと渡った。 常人ならば、疵口に塩を塗られるようで酷である。

   が、長谷川は私淑しただけあって乃木の気質を理解し、悲劇の主人公を全うさせてやっているとも言えよう。